25歳になった。

 

あっという間に過ぎていく毎日。
ただ、何かを待っているだけのような毎日。

文章を書く理由の一つに、
その時、その瞬間の記憶を咀嚼したいという思いがあった。

忙しなさや休息にかまけて、続けられていなかったけれど
続けることが目的なのではないから、いいじゃないか。
なんて、自分に言い訳をしておこう。

 

本や、書くことや、観ること、感じること、考えること・・
どれが欠けてもいけないと、私は分かっているはずだ。

 

どれだけ楽しくても、煌めいていても、
忙しなさに体が適応してきても、
私自身はいつも、その世界の裏側にいるのだった。

深く息を吸える場所。

 

自分にとって大切な時間を、共に過ごしてくれる他者。
あの人のそういった態度に何度も、自分を肯定してくれているような救いを得た。

 

その大きな蜜の容器に、浸るだけにはならないように。
吐き出す息が、誰かの心に少しでも温かみをもたらすように。

傲慢かもしれない。だけど、そう思っていたいのだ。

「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない」

 

自宅の近くにできていて気になってた
よし行くぞと決めて、重い腰をあげる

 

静かな路地の奥にある 本と喫茶のお店
ストーブと墨の幽香がすっと鼻を抜ける

店主さんの細やかなセンスがあちこちに光ってた

 

紅茶とシナモンをじっくり煮出したシナモンミルクティー

コーヒーを飲む気満々でいたのに
メニュー名の下に添えられてる文で心変わりした

ちょっとした何かが、感情や意思判断に及ぼす影響の
計り知れない大きさを、ふと、直で感じた瞬間

 

 

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。

 

目の前にあって読んでみた小説の冒頭に、なぜだか、ドキリとした

読まなければいけない
と、その思いで店を出たあと書店に行って買った
小説を読むのも、買うのもそういえばすごく久しぶりだ

思想やエッセイとかの内向的なものを好みがちだけども
たまにとても好きだと思う小説に奇跡的に出会えることがある

 

素敵な場所、素敵なひとたち、本との出会い

 

 

Heaven knows I've tried

 

朝から用事があったから 早く起きなきゃいけなかったのだけど
その夜は大きく漠然とした不安と、気づかないフリをし続けていたプレッシャーが、とうとう我が身にのしかかってきた。そう、これはいわゆるPMDDと呼ばれる月経前不快気分障害

ホルモンのせいだと言い聞かせてとりあえず、思い切り悲しんだ。泣いて、しばらく経てば自然と眠くなるだろうと思っていたけれど、そうはいかない。
頭の中を駆け巡る、手に負えない何か。

Laufey の "Let You Break My Heart Again"を聴く。

 

Feeling kind of sick tonight

All I’ve had is coffee and leftover pie

It’s no wonder why

 

Still you take up all my mind

I don’t even think that you care like I do

I should stop

Heaven knows I've tried

 

One day

I will stop falling in love with you

Some day

Someone will like me like I like you

 

Until then I’ll drink my coffee

Eat my pie

Pretend that we are more than friends

Then of course I’ll let you break my heart again

 

一段、もう一段と、夜の層に沈んでいく
心地よい感覚と共に
悲しみや不安が、波のように
押し寄せては引き、繰り返し、
私が最奥にたどり着いた頃にはもう
あの地平線の彼方へ

 

また遠くないうちに、それが来ることを私は知っている。諦めに似た気持ち。悲しみや不安、プレッシャーから完全に解放される時なんて、あるのだろうか。きっと私が変わらなければこのまま何も、変わらないのだろう。よし変わろう、なんて決して思わないけれど、良い方へ、明るい方へ向かいたいとは思っている。嘘や傷みや憎しみがはびこる中で、私には幸せよりも、苦しみや不安をを見つけることのほうが遥かに簡単なのだった。

それでも、幸せは確かにある。ついつい不安を探してしまいがちだけれど、幸せだって、きっと同じくらいあるはずだ。不安を探し出して、その小さな穴を何時間もかけて覗き込むよりも、どんなに小さな幸せも見つけてやるという意気で生きるほうが、よっぽど幸福度というものは高いのだろうね。

でもね、不安や悲しみに目を凝らすことでしか、得られないものや見つけられないものもあるのだよ。

 

四葉のクローバーを探しながら、萎れたクローバーをじっと眺める。いつもならもう、クローバー探しはやめてしまうだろう。あまりにも感情が、寄ってしまいすぎて。けれどあのクローバーを思いながら、私は四葉のクローバーを探すことだってできるのだ、きっと。

 

 

もしくは、それに似た何か


雨が降ったり止んだり、一日中じとじとしている中、京都にも梅雨入りの知らせが。
だから、先週末は雨だろうと思っていたけれど、
土曜日曜は、束の間の晴天が訪れて嬉しかった。

 

相変わらずたくさんの人で賑わう鴨川。
これは自然の中特有の穏やかな賑やかさだろう。
繁華街や遊園地にあるような、切迫感とは無縁の賑やかさ。
このような光景はいつまでも見ていられるな。

 

出町柳まで歩き、叡山電車に乗る。
一年ぶりの貴船神社。今回は、好きな人と一緒に。

彼は貴船神社が初めてとのことで、「楽しんでもらいたい」という思いで行ったのだけれど、
結局いつも通り、すぐにしんどくなってしまう私に、彼はずっと歩幅を合わせてくれていた。

 

神社で引いた、というか(水に)さらした水みくじは「吉」で、彼は「大吉」。
一年前は私も大吉を引いたのに。その時はなぜか悔しかった。

けれど、あなたに大きな運気が訪れ、それに護られるなら、私は安心だ。

 

親みたいと思われるかもしれないけれどずっと、幸せでいてほしいと思う。
隣に私がいても、いなくなっても。
彼が、少しでも彼自身に近づき、大切なものを惜しみなく、大切にできますように。

 

おみくじの紙を固く結び、奥宮へ。
しんと静まりかえっていて、神聖と呼ぶにふさわしい場所だった。
ここには何かがいるかもしれない。
そう思わせられるのは、無信仰と思ってきた私にも、
少なからず神様などといった存在に対する信仰心があるから。
西欧などではイエス・キリストアジア諸国では釈迦というふうに、
唯一の存在や、彼らの教えに自分の信仰心を預けるということは
私にはあまり馴染みのない感覚だけれど、ふとした時、
あるものやある場所に神聖さを感じそこに神のような存在を、心でたしかめる。
いや、神ではなくて、もっと、多様な存在なのだけど。

 

これがいわゆるアニミズムなのかもしれないね。
もしくは、それに似た何か。
はっきり定義するにはあまりにも抽象的すぎる、
そんな存在を感じる感覚を、私は持っているのだな。

 

そんな話をしながら、バス停まで山を降っていった。

 

鴨川、花火の匂い

帰り道、もうとっくに日も暮れて
最寄りの駅に着く頃には辺りが暗くなっていた。

ふと、鴨川に足を運んでみる。

日中はたくさんの人や動物の憩いの場となり
賑やかなここも、この時間になると静かに。

わたしはこの時間の鴨川が好きだ。
気を抜くと、呑み込まれてしまいそうなほど
鴨川は大きく、暗く、
何世紀もの歴史を背負っていて、深い。

呑み込まれるのを待っている時間だけは
全てから解放されているようで、清々しい。

待っていればそのうち
悲しみや苦しみもすべて
呑み込んでくれるのだろうか。

鬱陶しい感情たちが消え、
鴨川に濾過されたわたしは
一羽の鴨となって、鴨川に放り出される。

不安や苦しみとは無縁の一羽の鴨。
そうなれば、嬉しいことや幸せな記憶も
きっと、忘れて、なくなってしまうのだろうね。
人の幸せと、鴨の幸せは違うだろうから。

わたしは、それでもいいと思った。

 

花火の匂いで現実に戻される。

学生たちが楽しそうに
花火をしているのが少し遠くに見えた。
学生っていいな。
自由で、無敵で、きらきらしている。
こういう思い出がきっと、大人になった時
彼らの宝石箱の中で輝き続ける
宝物になるのだろうな。

わたしに見えている鴨川とは別の鴨川が
彼らの目に映っていることを願う。

私の純粋な感性は

気が緩んでいるのか、
最近はせっかく早起きをしてもだらだら過ごしてしまう。
結局家を出る時間は早起きでなかった頃と同じ。

 

通勤は徒歩に電車を挟むので、電車に乗っている間は
情報をアップデートさせるべくニュースサイトやSNSを巡回、
もしくは目を閉じて今日の仕事や週末の予定について考える。
または、読書。

 

画像

 

最近読んでいるのは多和田葉子『百年の散歩』
ベルリンで暮らす作者が
ベルリンに実際にある通りを散歩しながら、
見たものや感じたことを綴る。
彼女の豊かな想像力と言葉選びや言葉遊び、
風景や人々の描写には圧巻する。
まるで絵本を読んでいるみたいだ。
その場で、また、彼女の頭の中で起きている
ファンタジックかつドラマチックなことが、
彼女の言葉で、文章で語られる。
その光景がいとも容易く頭に浮かぶ。

 

その中に、知らない人の物語を
勝手に作ってしまう語り部にあった時の話がある。
彼女は名前を訊かれ、思わず本当の名前を彼に伝えた。

 

するとわたしを主人公にした物語を歌い始めた。関係ないと言えばないのだが、名前をとられてしまうと相手の意のままになりそうで恐い。途中で心付けを要求され、名前を勝手に使われて少し腹がたっていたので、とびきり少ない額を渡すと、語り部はむっとして、つまびく和音も不吉に陰り、歌が嫌な感じで肌にまとわりついてきた。言葉は理解できなくても、主人公が不幸な運命を辿り始めたことがはっきり感じられた。そこで、あわててチップをはずむと、歌声にぱっと火が灯り、リズムが快適に未来を切り開いていく。『百年の散歩』175

 

軽快でたのしい。読んでいて気持ちがいい。
そしてまるで小さなこどもを感じさせる、繊細で豊かな感性。
そう、この本の魅力はそこなのだ。

 

時に私たちは、大人であることを強いられる。
冷静さを欠かさず、感情的にならないこと。
ものごとをクールに、そつなくこなし、
自分の隙は表に出さず忍ばせる。
感情をさらけることも、
できないことがあるということも、
ほんとうは辛いのだということも、
他人、近しい人、そして自らにも見せるべきではない。
だってそれが「大人」なのだから。

 

このような意識の波を被り、被り、被り続けると
気付いた時にはいつでも呼び出せていたはずのこどもの私は失踪。
私の純粋な感性は、どこへいってしまったか。

 

そう、私は私が感じた通りに感じ、
思った通りに思い、考えればよいのだ。
そこに善悪や世間体、社会など一切無用なのだから。

 

世間が善いと言うことを善いことなのだと
自らに言い聞かせるだけではもったいない。

 

なぜ気に入らないのか
なぜ疑問を持つのか
なぜ共感するのか
なぜ納得するのか

 

こぼれ落ちる小さな欠片を拾い集め
自分の世界の輪郭をつくっていく。

 

「なぜ」の答えこそ、私が、あのこどもが行き着き
腰を据える場所を示しているのだろうね。

 

私は、彼女のように自分の中に広い世界を持っていないけれど
狭くてもいいから自分の世界はずっと、持っていたい。

大切に持ち続けていたら、あの子もきっと。

 

だから文章を書く。
こうして自分と話していると、
なんだか、なぜだか、赦されている気持ちになる。

 

明日こそは、はやく家を出れるかしら。
電車で本を読むのも好きだけれど、
やっぱり、カフェなんかでゆっくり読みたいものだ。

星の友情


何かが上手くいくと何かが上手くいかなくなる。というか、失落する。

 

先日、少ない友人の一人に、関係が壊れるのを覚悟で自分の思いを伝えた。
どうしても「まぁいいか」で済ませられないことだったから。

 

「今から話すことは私があなたに対して感じた正直な気持ちだけれど、
あなたを大好きな気持ちやあなたに対する信頼は変わらないよ。」

私は眠っている子猫を撫でるような思いで慎重に、敬意と愛を込めて話した。

 

壊れたか壊れてないかで言うと、壊れたのだと思う。

大切な誰かと深く、誠実に向き合い関わろうとするといつも失ってしまう。
おかしいね、失わない為に勇気を持って向き合うのに。

 

大切じゃなければ、それに対して誠実でい続けることも向き合うことも、
それに伴う勇気も必要なくなるけど、自分の身の回りは大切なものだけでいい。
その中のひとつも欠かしたくないというのは、手放したくないというのはきっと無理な話なのだろう。

 

本当は、関係が壊れる覚悟なんて無かったのかもしれない。期待していたのだろう。
きっと、分かり合えると。でも私はあの子が大好きだから、選んだ答えを信じよう。
自分の選択も信じよう。信じなければいけない。

 

そういえばニーチェの「星の友情」はこのことを言ってるのかもしれない。

 

私たちは友人であった。
だが疎遠になってしまった。
そうなるのが当然だったのだ。

 

大切なものを失うことや、大事な人との別れは悲しい。
どう考え直しても、振り解こうとしても、
その痛みや喪失感はしばらくの間そばに居続ける。
そして、さまざまな考えにたどり着く。
「あの時こうしていれば」「自分のせいだ」
「なぜ理解してくれないの」「こんなこと望んでいなかった」…

 

過去の私と今の私、変わっていないようで実は大きく変わっている。
1秒前の私と今の私では見えない変化でも、1ヶ月前、1年前はどうだろう。
私を司る、芯の部分は常に私の意識の中心にあるから変わっていないとしても、
その外側を纏うあらゆるものは常に入れ替わり、
アップデートされ、変化し続けている。

 

初めて話して意気投合したあの日、私たちの時間と道は確かに交わった。
時に離れながらも、また交わり、同じ方向に進み続けていた。
しかし、私たちは互いに変化し自分自身へと進んでいくために、
進むべき方向もあの時と変わってしまった。

 

大きな海の上でたまたま出会った、それぞれの船に乗った二人。
長い間同じ航路を進んでいた。けれど目的地が違うから、別れざるを得なかった。
そうしなければ、お互いそれぞれの目的地に辿り着くことができないから。

 

私たちは他人の航路ではなく自分の航路を、自分の人生を歩まなければいけない。

 

私たちが疎遠になるしかなかったこと、それは私たちを支配する、あずかり知らぬ法によってである。
まさにそのことによってこそ、私たちは互いにより深く敬意を抱くべきなのである。
こうして、私たちのかつての友情の記憶はいっそう聖なるものとなる。

 

ニーチェによる多くの言葉からは、人間に対する大きな愛と、
愛するが故にその不完全さや脆さを直視せざるを得ないことへの絶望を感じる。
ニーチェの哲学のほとんどは、この二つをアウフヘーベンしたものではないだろうか。

 

何かをきっかけにこの「星の友情」を知った時、分かったつもりでいたけれど、
あまりわかっていなかったのかもしれない。
だって、大好きな友人を失うことなんて考えられなかったし、想像もしたくなかった。

 

今、『星の友情』を読んで感じること。
おそらくこれは、失うことも手にすることも
恐れる必要は無いということを意味している。

期待と絶望を繰り返しても、ニーチェのその運命や人に対する愛は消えなかった。
だから彼は、彼なりのアウフヘーベンを繰り返して、新しいテーゼをつくった。
そしてその思想に論理を組み立てることによって、自分の、人間に対する愛を守った。それが結果的に哲学という形で世に広まった。

 

ああやっぱり、哲学は面白い。
ありふれたアフォリズムや誰かの理屈が、ある瞬間に突然、実体験とシンクロし、
本当に自分のものになる瞬間がある。
それにこそ、哲学書を読む大きな意義があるのではないだろうか。
自分が感じたことと、知識として携えてた論理が一体化されて初めて、わかる。

私はこの瞬間のために生きているのではないだろうかと思う。

 

大切な誰かを失っても、側にいても、私は変わらずひとりだ。
愚かさゆえ、それを忘れてしまっていた。
何度も、何度も。親密さの中にいると鈍感になる。
きっとまた忘れ、そしてこうやって思い出し、
答えのない問いについていつまでも考えるのだろう。

それが、私の航路である限りにおいて。