私の純粋な感性は

気が緩んでいるのか、
最近はせっかく早起きをしてもだらだら過ごしてしまう。
結局家を出る時間は早起きでなかった頃と同じ。

 

通勤は徒歩に電車を挟むので、電車に乗っている間は
情報をアップデートさせるべくニュースサイトやSNSを巡回、
もしくは目を閉じて今日の仕事や週末の予定について考える。
または、読書。

 

画像

 

最近読んでいるのは多和田葉子『百年の散歩』
ベルリンで暮らす作者が
ベルリンに実際にある通りを散歩しながら、
見たものや感じたことを綴る。
彼女の豊かな想像力と言葉選びや言葉遊び、
風景や人々の描写には圧巻する。
まるで絵本を読んでいるみたいだ。
その場で、また、彼女の頭の中で起きている
ファンタジックかつドラマチックなことが、
彼女の言葉で、文章で語られる。
その光景がいとも容易く頭に浮かぶ。

 

その中に、知らない人の物語を
勝手に作ってしまう語り部にあった時の話がある。
彼女は名前を訊かれ、思わず本当の名前を彼に伝えた。

 

するとわたしを主人公にした物語を歌い始めた。関係ないと言えばないのだが、名前をとられてしまうと相手の意のままになりそうで恐い。途中で心付けを要求され、名前を勝手に使われて少し腹がたっていたので、とびきり少ない額を渡すと、語り部はむっとして、つまびく和音も不吉に陰り、歌が嫌な感じで肌にまとわりついてきた。言葉は理解できなくても、主人公が不幸な運命を辿り始めたことがはっきり感じられた。そこで、あわててチップをはずむと、歌声にぱっと火が灯り、リズムが快適に未来を切り開いていく。『百年の散歩』175

 

軽快でたのしい。読んでいて気持ちがいい。
そしてまるで小さなこどもを感じさせる、繊細で豊かな感性。
そう、この本の魅力はそこなのだ。

 

時に私たちは、大人であることを強いられる。
冷静さを欠かさず、感情的にならないこと。
ものごとをクールに、そつなくこなし、
自分の隙は表に出さず忍ばせる。
感情をさらけることも、
できないことがあるということも、
ほんとうは辛いのだということも、
他人、近しい人、そして自らにも見せるべきではない。
だってそれが「大人」なのだから。

 

このような意識の波を被り、被り、被り続けると
気付いた時にはいつでも呼び出せていたはずのこどもの私は失踪。
私の純粋な感性は、どこへいってしまったか。

 

そう、私は私が感じた通りに感じ、
思った通りに思い、考えればよいのだ。
そこに善悪や世間体、社会など一切無用なのだから。

 

世間が善いと言うことを善いことなのだと
自らに言い聞かせるだけではもったいない。

 

なぜ気に入らないのか
なぜ疑問を持つのか
なぜ共感するのか
なぜ納得するのか

 

こぼれ落ちる小さな欠片を拾い集め
自分の世界の輪郭をつくっていく。

 

「なぜ」の答えこそ、私が、あのこどもが行き着き
腰を据える場所を示しているのだろうね。

 

私は、彼女のように自分の中に広い世界を持っていないけれど
狭くてもいいから自分の世界はずっと、持っていたい。

大切に持ち続けていたら、あの子もきっと。

 

だから文章を書く。
こうして自分と話していると、
なんだか、なぜだか、赦されている気持ちになる。

 

明日こそは、はやく家を出れるかしら。
電車で本を読むのも好きだけれど、
やっぱり、カフェなんかでゆっくり読みたいものだ。