堀川通

堀川通は、京都市の南北を結ぶ大きな路。
名前の通り「堀川」の横にある通りで、
側には二条城や晴明神社、一条戻橋や白峯神宮などが見える。


冬が終わり、少しだけ温かくなってきた
この時期の京都はどこまでも歩くことができそうだ。

コンビニでカフェラテを買って夜の堀川を散策していると、
なんだか穏やかな空気に包まれている感覚を持った。
春はもう、すぐそこにいる。

静かに流れる水路の中に、二羽の鴨がいた。
この時期にいるということは、この辺に住んでいるカルガモだろうか。
二羽は仲良くゆったりと水中を見つめて歩いている。
私はその姿に妙な覚えがあった。

以前、誰かとこんな風に夜、誰もいない川辺を歩いた記憶がある。
でも、思い出せない。私の脳みそはついに勝手な幻想まで持ち始めたのだろうか。
そんなことをされては困る。

その時間はきっと2、3分にも満たなかっただろうけれど、
私は長い時間をかけて思い出そうとしてみた。
しかし、記憶を辿るのが苦しくなってついに思い出せなかった。

きっと、素敵な時間だったに違いない。二羽の鴨はいつの間にか居なくなっていた。




少し歩くと、橋の下で誰かがギターを持って座っているのが見えた。

こんな時間だからか、灯りが不気味に彼を照らしているせいか、
もしくはその橋が一条戻橋だからか、私は変に緊張して、
胸をざわつかせながらその前を通った。

「こんばんは」と一言言えばよかったかもしれない。
しかし彼に声をかけてしまえば最後、
たちまち知らない世界に連れて行かれてしまい、
私は元の世界へ戻るための方法をその世界で
何十年、何百年もかけて探すことになるだろう。

そんな妄想に取り憑かれ、私はなぜか息を止めて一条戻橋をくぐる。
自分の無事を確かめて、ギターの彼に心の中で謝っておく。
そういえば、ギターの音は一度も聞こえなかった。

夜の静かな京都では、何が起こるかわからない。
何が起きてもおかしくない空気が、たしかにある。

一条戻橋には奇しい伝承がいくつかある。
「あの世とこの世を結ぶ橋」と言われているのはその一つ。
また、安倍晴明式神が眠っているのだとか。
その式神を使って「橋占」をおこなっていたという。

あの時私が息を止めて橋をくぐらなければ、ギターの音は聞こえたのだろうか。
もしかしたら、という想像をしながら冷め切ったカフェラテを飲み干す。
振り返るとまだ、橋の灯りは彼の影を映していた。




堀川今出川を西に入ったところに、老舗の和菓子屋「鶴屋吉信」がある。

1階ではお菓子を販売していて、2階には「菓遊茶屋」というお休み処がある。
カウンター席では実際にその季節で出されている上生菓子の実演が行われていて、
目の前で職人が作ってくれた上生菓子をいただけるという
なんとも贅沢な体験ができる、素晴らしい和菓子屋さんだ。

私は中庭の見える横がけの席に着いて、
そろそろ時期が終わってしまうおしるこを注文した。
平日の変な時間だというのに、スーツを着た男性が一人で入店してきた。
中庭をぼうっと見つめながらお茶を啜る彼を横目に見て、
ここは彼にとっても秘密基地なのだと知る。

自分の秘密基地を持っていない人がいるのだろうか。
だとしたら、私はその人を尊敬する。
私は自分の秘密基地をいくつも持っていないと、とても生きていられない。

私は、私を知る誰にも知られてはいけない時間を、人生に持っている。
自分を守るための時間と、空間。
それは、自宅だったり、あのカフェだったり、
鴨川沿いだったり、夜の堀川だったり、平日の変な時間のあの和菓子屋だったりする。
一人で思考を巡らせられる時間と場所は、私にとってとても大事だ。

私から「考える」ということを取ってしまうと、一体何が残るだろうか。
機械のような脳みそは、私を怖がらせるような変な妄想も、
時間をふんだんに使うような思考もおこなわないのだろう。
秘密基地なんかも必要なくなる。この社会にとってはそれがいいのかもしれない。

おばあさんになった私は、どんな秘密基地を持っているのだろうと想像してみる。

そういえばあの一条戻橋の下も、ギターの彼にとっての秘密基地なのかもしれない。

 

 

「カシャリ」という音


月曜日

 

楽しみにしていた予定が無くなってしまった。


またか。私は選ばれなかった。
あれこれ考えてしまう私は、優先順位が可視化されてしまうような表現は
避けてほしいなどと思ってしまう。


楽しみにしていたのは私だけかもしれない。
他にも書き起こすのが嫌になってしまうくらいには醜い妄念が、
頭に付き纏って離れない。


私は何かを恐れている気がする。何を恐れているのだろう。

一人で強くなると決めたのに。

 

火曜日

 

初めて入る小川珈琲で、期間限定のホットサンドを食べた。
コールスローと、ハムと、レモンが入ったシンプルなサンド。
あまり期待せず食べてみたけれど、とても美味しくて、嬉しくなる。
レモンがそのまま食べれるくらいの酸っぱさで、サンド全体を調和していた。
レモンってこんなに美味しく食べれるのね。


珈琲も美味しかった。
苦手な酸味のある浅煎りのもののようだったけれど、
口の中での主張があまりなく穏やかな酸味で飲みやすい。


斜め前のマダムの席に、小さなスイーツがいくつか乗ったプレートが運ばれる。
マダムはプレートにうっとりしているよう。
そしてそれを真上からスマホで撮りはじめる。


「カシャリ」という音が、ホールに鳴り響く。


美味しそうなもの、可愛いもの、きらきらしているものを見て、心がときめく気持ち。
この姿を、この姿が一番美しく見える完璧な画角で収めて手元に残したいという気持ち。


インスタ映え」なんて言葉が広く出回り、
マーケティングや顕示欲の象徴として認識され始めると、
心ときめいたものをカメラにおさめることを躊躇ってしまう。

 

心惹かれたものに対して純粋な気持ちでもって向き合う姿は、
それがモラル的にどうとか関係なく、美しいと思う。

 

「カシャリ」という音は、誰かの無垢な心がときめいた音かもしれない。

 

「できない私」を愛する

 

月曜日

 

「絶対できるよ」「できるから大丈夫」
優しい人たちの励ましの言葉たちが、
私の焦燥感を沸き起こす。

「そうだよね、ありがとう」

もっと不安になる。できるようにならなきゃ。
「できない私」では、
きっとがっかりさせてしまうから。
がっかりさせる… いったい、誰を?


「自分にできないことがあったっていいじゃん」
無責任なようで
聖母のような包容力を持つ言葉。
そこにあった不安が
いとも簡単に解きほぐされてゆく。


「できない私」でも変わらず好いてくれ、
愛してくれる人がいるという実感。
これからは私が
「できない私」を愛する番だ。


火曜日


へとへとになって帰宅した。
それでもやると決めていたから、
溜まっていた洗濯物を回して、
ご飯を用意して、化粧を落として、
シャワーを浴びて、スキンケアをして、
明日の準備をする。

 

この世の中ではきっと、
これが正しいのだろう。
余裕を持たず懸命に暮らす。
「えらいね」「頑張ってるね」
こんな言葉が聞こえてきそう。
そして次第に社会の犠牲者としての
自覚を持たずして心を病み、
労働や子育てという言葉でもって
「貢献せよ」と強いる社会に、
知らず知らずのうちに呑み込まれ、
疲弊した心と共に肉体までをも
自らであやめてしまう人が、
この社会にはいる。

そんなことを思いながら、一連の作業を、
静まり返った家の中一人でする。
この虚しさ。侘しさ。
これがまったく平気な時もある。
一人の時間を愛してやまない時。
でも、この日はだめだった。

 

嫌な感情に身体中を支配されていた。
PMSのせいだ、きっとそう。
私はたいがいの場合、
一人の方が気楽で心地よい。
ただほんの時々、家に帰ると
「おかえり」と私を迎える人がいて、
今日の出来事を話したり、
ご飯を作ってもらっていたり、
こちらが作ったりするような、
そんな存在がある人を本当に羨ましく思う。
暮らしを共にする人。

できれば、というより必ず、
その人は私にとって
重要な人物でなければならないのだろう。

 

進学を機にこちらに越すまでは、
私も実家に家族4人で暮らしていた。
祖父はどちらともいなかったけれど、
どちらの祖母もいつでも会える距離にいた。
両親の仲があまりよくなかったこともあって、
早く家を出たいと思っていた。
二人とも、私たち姉妹を愛しているが故に一緒に暮らし、
私は両親を愛しているが故に、
その環境が、些細な言動から
垣間見られるひとつの夫婦の終わりが、
とても重くて、苦しくて、辛かった。

 

あの時、私は一人暮らしに憧れて
こちらに越すのを急いだ。
纏っていた鎖がほどき落とされるようだった。
その心地よさ、気楽さを確かに感じた。
しかし、それと同時に家族の繋がりも薄く、
もろくなっていったことに、
当時は気が付かなかった。

今になってふと実感する。
もう、この家族が揃って
同じ家にいるということはないんだ。

 

お風呂でじっくり泣いたら、
少し気が楽になった気がした。
そういえば、泣いている人に
「泣かないで」と声をかける
優しさがあるけれど、私には分からない。
自分が泣いている時にそう言われてしまうと、
もうその人の前でうかつに感情を露わにすることは無くなるだろう。

 

泣くということは、
体の中だけでは収まりきらなかった感情が
出口を探して外へ出てくること
ではないだろうか。
溢れ出る感情に、「出てこないで」と
言ってしまうのは悲しすぎる。
それでも、世の中には
そのような優しさがある。

私が自分の感性で感じることが、
世界の全てを定義づける
なんてことは決してないように、
優しさにも人によって
様々な形があるのだろう。
これは以前話した愛についても
同じことが言える。

 

家族という一つの愛の形。
自分にとって重要な誰かとの愛の形。

「泣かないで」という優しさ。
「泣いていいんだよ」という優しさ。

 

私は考える。
時には仏のような優しい顔をつくって
私たちに向ける社会に、
この人が、あの人が、
時には自分が呑み込まれないように、
私にできることは何だろう。
かけてあげられる言葉は何だろう。

どうか未来の私が、
誰の感情も押さえつけてしまいませんように。
どんな形の優しさも、
見逃してしまいませんように。

 

小さなスペース

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帰宅ラッシュ時の烏丸線
どこの路線でも同じように、
疲れた顔をした人々で埋まっている。
その車両に座るほとんどの人が
手元のスマホに目を落とし首をかがめている中、
小学校低学年くらいの男の子が
ひとりぽつんと座っていた。

 

私は男の子の前に立って吊革を掴む。
とても疲れているように見えた。塾帰りかな。
学校で授業を受けたあと
塾でも勉強をするなんて、偉いなぁ。
私が小学生だった頃は学校後は
真っ先に家に帰って友達と遊んだ。
塾に通っている子なんてクラスに
一人か二人程度だったように思う。
なんてことを思い出しながら
車窓に映る自分の疲れた顔を見ていた。



男の子がじっと私を見ている気がした。
こんな疲れた顔で目の前に立ってごめんね
と、咄嗟に心の中で謝罪。
すると男の子は、わずかに空いていた
隣のスペースに体を移した。
目の前に子ども一人分のスペースがうまれた。
なんと道徳的で美しい行為。
男の子が作ってくれた
スペースに私が座る余地はない。
それはその子も分かっていただろう。
しかし、目の前に疲れきった顔で
ぼうっと立っている見ず知らずの女性のために、
その子はその良心に従って自らの体を動かしたのだ。

 

もしかしたらギリギリ座れる
スペースができるかもしれない。
あるいは、一応スペースを空けるふりをしておこう。
そんなふうに考えていたかもしれないが、
それはどうでも良かった。
自分も疲れているはずだろうに
別の疲れている人を思い、
きっと、どうしようか迷った挙句、
場所を作るために横に少しずれてみたのだろう。
残念ながら私はその小さなスペースに
座ることができなかったけれど、
どうか、どうかそれが無意味だと、
無価値だと思わないで。
もし座れたとしても、座れなくても同様に、
あなたのその行為そのものが最も
素晴らしく、尊いのだから。

 

この子の内にある確かな良心、道徳。
それを実践する理性。
美しくて、嬉しくて、
胸がいっぱいになった。

 

イマヌエル・カントの哲学を思い出す。
彼は自由について、
「人間ならば誰でもいつでも守らなければならない
道徳的な義務の法則(道徳法則)に、
自らの意志で従うことこそが真の自由だ」
という。
また、人間の尊厳の根拠である「人格」を、
「自らの意志で道徳的に生きるという自律の力を持つ存在」
だと定義した。

 

私はあの車両の中で、
カントのいう「自由」を持つ、
たしかな「人格」としての人を見た。
これまでカントのいうことは小難しく、
頭ではわかっているつもりでも
どことなく掴みきれていない
という印象を持っていた。
けれど、あの瞬間をもって、
あの男の子によって、
ぼやけていたイメージが
実体化したような気がした。

 

日常にありふれるもの
不確かで曖昧なもの
言葉に表せないもの。
それらの普遍性をたどり、慈しむこと。

 

ああ、だから私はやっぱり、哲学が好きだ。