小さなスペース

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帰宅ラッシュ時の烏丸線
どこの路線でも同じように、
疲れた顔をした人々で埋まっている。
その車両に座るほとんどの人が
手元のスマホに目を落とし首をかがめている中、
小学校低学年くらいの男の子が
ひとりぽつんと座っていた。

 

私は男の子の前に立って吊革を掴む。
とても疲れているように見えた。塾帰りかな。
学校で授業を受けたあと
塾でも勉強をするなんて、偉いなぁ。
私が小学生だった頃は学校後は
真っ先に家に帰って友達と遊んだ。
塾に通っている子なんてクラスに
一人か二人程度だったように思う。
なんてことを思い出しながら
車窓に映る自分の疲れた顔を見ていた。



男の子がじっと私を見ている気がした。
こんな疲れた顔で目の前に立ってごめんね
と、咄嗟に心の中で謝罪。
すると男の子は、わずかに空いていた
隣のスペースに体を移した。
目の前に子ども一人分のスペースがうまれた。
なんと道徳的で美しい行為。
男の子が作ってくれた
スペースに私が座る余地はない。
それはその子も分かっていただろう。
しかし、目の前に疲れきった顔で
ぼうっと立っている見ず知らずの女性のために、
その子はその良心に従って自らの体を動かしたのだ。

 

もしかしたらギリギリ座れる
スペースができるかもしれない。
あるいは、一応スペースを空けるふりをしておこう。
そんなふうに考えていたかもしれないが、
それはどうでも良かった。
自分も疲れているはずだろうに
別の疲れている人を思い、
きっと、どうしようか迷った挙句、
場所を作るために横に少しずれてみたのだろう。
残念ながら私はその小さなスペースに
座ることができなかったけれど、
どうか、どうかそれが無意味だと、
無価値だと思わないで。
もし座れたとしても、座れなくても同様に、
あなたのその行為そのものが最も
素晴らしく、尊いのだから。

 

この子の内にある確かな良心、道徳。
それを実践する理性。
美しくて、嬉しくて、
胸がいっぱいになった。

 

イマヌエル・カントの哲学を思い出す。
彼は自由について、
「人間ならば誰でもいつでも守らなければならない
道徳的な義務の法則(道徳法則)に、
自らの意志で従うことこそが真の自由だ」
という。
また、人間の尊厳の根拠である「人格」を、
「自らの意志で道徳的に生きるという自律の力を持つ存在」
だと定義した。

 

私はあの車両の中で、
カントのいう「自由」を持つ、
たしかな「人格」としての人を見た。
これまでカントのいうことは小難しく、
頭ではわかっているつもりでも
どことなく掴みきれていない
という印象を持っていた。
けれど、あの瞬間をもって、
あの男の子によって、
ぼやけていたイメージが
実体化したような気がした。

 

日常にありふれるもの
不確かで曖昧なもの
言葉に表せないもの。
それらの普遍性をたどり、慈しむこと。

 

ああ、だから私はやっぱり、哲学が好きだ。